秀吉による「ふぐ中毒取締令」の始まり

 豊臣秀吉は朝鮮征伐のために肥前の国に名護屋城を築城しここを基地に16万の兵を全国から駆り集めた後、朝鮮へ出兵させました。

 これが文禄の役(西暦1592年)です。

 この用兵を全国から集めているときに、禁止令の契機となる事件が持ち上がったのです。朝鮮出征の際、一旦下関へ集結した兵たちは諸国から来ているのでふぐの毒を知らず内臓も煮て食べて命を落とす者が続出しました。
 そこでたまりかねた秀吉は町の辻つじに禁札を立てさせ、これにふぐの絵を描いて「この魚食うべからず」とその食用を禁じたのです。

 これがわが国における「ふぐ中毒取締令」の始まりなのです。


 
 フグの毒はテトロドトキシンという猛毒です。

 そのためフグ中毒によって昔からたくさんの人が亡くなっています。現在でも毎年数十件のフグ中毒が発生しており、毎年平均して全国で3〜5人が死亡しています。特に多いのが営業施設以外(家庭等)で自家調理したものの事故です。
 フグには、種類によって食べられるものと食べられないものがあり、そして食べられる種類のフグでも食べられる部分とそうでない有毒な部分があります。有毒部分は完全に除去しなければならないため、都道府県で認可したフグ処理師の資格や加工処理施設などが必要です。

 料理の用語で「魚を三枚に下ろす」といいますが、フグの場合その前にさらに一次加工が必要で、これを「身欠き」といい極めて専門性の高い特殊な加工技術です。この過程で有毒部分を除去しすべてを食べられるようにするのです。

 「身欠き」にされたフグは三枚に下ろし刺身やちり用として加工されますが、一匹のフグを処理するのに30リットル近い水を使用します。水をふんだんに使って処理するからこそフグは安全なのです。調理されたフグを口にするまでにはたいへん長い作業工程を経てきているのです。




【付録】       

1536年(天文05)

1554年(天文23)
1561年(永禄04)
1573年(天正元)

1574年(天正02)
1581年(天正09)
1582年(天正10)


1583年(天正11)
1584年(天正12)
1585年(天正13)
1586年(天正14)
1587年(天正15)
1588年(天正16)
1590年(天正18)

1591年(天正19)
1592年(文禄元)
1594年(文禄03)
1597年(慶長02)
1598年(慶長03)


*****豊臣秀吉・年表 *****

2月6日、尾張愛知郡中村で誕生。ただし正確な出生地、
および出生については諸説あり、定かではない。
各地を放浪の後、尾張に帰り、織田信長の小者となる。
浅野長勝の養女おねと結婚。
木下から羽柴に改姓。小谷城を攻め浅井氏を滅ぼす。
この論功行賞で北近江三郡と小谷城を与えられる。
今浜に築城。ここを長浜と改名める。
鳥取城を兵糧攻めで攻略。
高松城水攻めの最中、本能寺の変報をうける。山崎の戦いで、
明智光秀を破る。清洲会議では信長の後継として三法師(秀信)
を擁立、柴田勝家との対立が表面化。
賤ヶ岳の戦い。柴田勝家を滅ぼす。大阪城を築城。
小牧・長久手の戦い。
紀伊を制圧後、四国を統治。関白に叙任。
羽柴から豊臣に改姓。(1585年説もあり)
九州を制圧。
諸大名に刀狩令を発布。
小田原の役で、北条氏を滅ぼす。
さらに奥羽を制圧して天下統一を達成。
養子・甥の秀次に関白を譲り、太閤をとなえた。
第1次朝鮮出兵。
吉野の花見。伏見城を築城。
朝鮮再出兵。
醍醐の花見。8月18日、五大老・五奉行に遺言状を残し、
伏見城で死去。享年62。