遊女に関する雑学 前に戻る


遊女とは

 遊女とは、遊郭や宿場で男性に性的サービスをした売春婦で、「客を遊ばせる女」と言う意味が一般的である。
 歴史を遡ってみると、最初は神仏一致の伝播を目的とする踊り子や歌い手の女性たちを指していたようである。これらの女性たちは決まった住居を持たず漂泊しながら暮らしていたので、売春婦という意味ではなく、旅する女という意味で「遊女」と言われていた。
 旅をする女性は芸能や売春で路銀を工面していたが、危険のつきまとう商売柄、仲介者を置いた方が便利で安全ということで、斡旋を介する者が現れ始める。そしてしだいに旅費ではなく生活費を稼ぐために定住して売春するようになり、また客と遊女の仲介屋として遊女屋が出現した。この辺りが売春婦としての遊女の始まりと言われている。
 ちなみに昔 遊女屋は「傾城(けいせい)屋」と言われており、「廓」、「遊郭」という呼び名が登場するのは官許の遊女(公娼)屋が現れてからのことになる。

 【補足】傾城(けいせい)について
 一般的に「傾城の美女」という表現で使われるが、正しくは「傾国傾城の美女」とか「傾城傾国の美女」と表現するのが正しい。
 語源は、中国の故事「一顧傾人城、再顧傾人城」(一度会えば城が傾き、再び会えば国が傾く)ほどの美人・悪女から来ている。一般的には、楚の項羽をたぶらかした虞美人(ぐびじん)、唐の玄宗皇帝をメロメロにした楊貴妃(ようきひ)が有名ですが、『春秋戦国志』(講談社文庫)では、中国史上で有名な傾国の美女は、1位が「褒じ(ほうじ)→周の幽王」、2位が「妲己(だっき)→殷の紂王」、3位を「西施(せいし)→呉王夫差」とランク付けしている。
 日本では遊女(特に太夫)を“傾城”と呼んだ。

 【補足】公娼について
 公に営業の許可を与えられたものを公娼という。公の営業許可を得ていないものは私娼として区別される。
 日本における公娼制度の歴史は、必ずしも明らかではなく、建久4年に、遊女屋および遊女を取り締まるために、源頼朝が里見義成を遊女別当を命じたことが、関連する史実の文献初出であろうという。
足利氏は、大永8年、傾城局をもうけ、竹内新次郎を公事に任じた。
豊臣時代、天正15年、京都柳の馬場に遊郭が設けられ、ここに公娼の営業形態が散娼から集娼へと改められはじめた。
江戸時代、麹町道三町、麹町八丁目、神田鎌倉海岸、京橋柳橋に遊女屋がいとなまれた。江戸幕府は、散在する遊女屋を特定地域に集合させるために、元和3年、日本橋葺屋町かいわいに遊郭の設置を許可し、ここを「吉原」と命名した。(明暦3年に、浅草日本堤下に移転を命じた。)この時、江戸幕府は「五箇条の掟書」を出して、その取締規則によって営業させた。こうして江戸に遊郭が設置され、ついで京都、伏見、兵庫、大津などにも公認の遊郭が設置された。
 その一方で、市中に潜む私娼を取締まり、これを禁じた。 このため城下町や駅路で営まれる遊女屋は「旅篭屋」という名目をとり、そこの遊女を「こども」、「飯盛女」などと云った。

五箇条の掟書
一、
二、 三、
四、
五、
傾城町の外傾城屋商売致すべからず、竝に傾城囲の外何方より雇ひ来候 とも先口へ遣はし候事向後一切停止さるべく候。
傾城買ひ遊候者は一日一夜の外長留り致間敷候事。
傾城の衣裳総縫金銀の摺箔等一切著させ申間敷候何地にても紺屋染を用 ひ申すべく候事。
傾城屋家作普請美風に致すべからず、町役等は町々の格式通り屹度相勤 め申すべき事。
武士町人体の者に限らず出所吟味致し不審に相見え候者は奉行所へ訴出 づべき事。

遊女の歴史

 奈良期から平安期における遊女の主たる仕事は、神仏一致の遊芸による伝播であり、その後、遊芸伝承が次第に中心となる。
 古代日本には貞操観念というものは希薄で、従って売春という感覚も言葉もなく、気の合った者同士で一緒に暮らそうが別れようが特に御咎めもなく、そもそも結婚の概念がない「母系社会」だったようである。そのために、子供が生まれた場合は、女性が引き取って育てていた。
 平安期には、紫式部の『源氏物語』で描かれているように、女性の元に男が通う母系婚の形態が鎌倉初期まで続いた。しかし、男系相続の進展と共に、まず、別宅としての男性主体の住処が成立し、そこに侍る女性としての性行為を前提とする新たな女性層が生まれた。これは、原始から綿々と続いた子孫繁栄のための対等な性行為から、性行為自体を商品化する大きな転機となる。 それまで、財産は母系、位階は夫系であった「母系社会」の秩序が壊れ、自立する拠り所を失った女性が、生活のために性行為を行う「売春」が発生するのは、正にこの時期である。
 遊女は、これとは一線を画し、遊芸の付属物として性行為を行い、そして、性行為自体の技を遊芸の域に高め、その専門家集団としての遊女が確立していく。

 売春婦は俗に世界最古の職業と言われるが、日本の遊女も古くから存在していた。諸外国の神殿娼婦と同様、日本の遊女もかつては神社で巫女として神に仕えながら歌や踊りを行っていたが、後に神社を去って諸国を漂泊し、宿場や港で歌や踊りをしながら一方で性も売る様になったものと思われる。
 そして、結婚の観念が変わっていくにつれて、男女互いに「操を立てる」ことに重点が置かれるようになる。鎌倉幕府までは女性の地頭が認められたりもしていたが、家督制度や家長制度が厳密化していくと女性の立場が次第に低くなってきた。それより二百年程前の十世紀になって、それまでの様に諸国を漂泊するのではなく、決まった場所に住居を構えて商売をする遊女が現れている。
 さらに時代は下り、1603年に自称・出雲大社の巫女の阿国が始めた『阿国歌舞伎』が京都で大流行する。それまで男性に限られた集団に女性のみで構成される集団が出来、男性の人気を集めるにつれて、次第に歌舞伎を演ずる女性たちが売春をするようになった。
 結局、風紀を乱すとして女歌舞伎は1629年に幕府により禁止されたものの、女歌舞伎の流行から禁止までの間に、徳川幕府は遊女屋を認可(放置)している。この時に、正式に認可されたのが、後の吉原である葭原(よしわら)遊郭である。設置されたのは1617(元和三)年。これ以降、公娼制度が始まり、それに伴って私娼が摘発されるようになった。摘発された私娼は官許の吉原へと送られ、三年〜五年の年季を勤めることとなる。彼女らは「奴女郎」、「けいど女郎」と呼ばれ、摘発された女郎が送られる遊郭(岡場所遊里)は値段の安さもあって大変繁盛した。
 ただ、女衒によってある程度の容貌であると見込まれ、幼い頃から教養を身に付けさせられる公娼とは違い、当然のことながら私娼は年齢・容姿・教養の有無を問いません。元私娼の素人女郎が送り込まれ、またそこが人気を博することによって、それまで諸芸に通じ容姿端麗な上妓が好まれていた吉原が次第に変容してくる。
 安値の遊女が増えるにつれて上妓は減少し、遊客の幅が広くなり、侍だけでなく町民や商家の者も多数訪れるようになった。これによって、元私娼のいる岡場所遊里と公娼のいる遊郭との差があまりなくなってきた。

吉原遊女の階級

 そもそも、吉原官許の際には太夫と端女郎の二種類の階級だった。時代が下り、更に厳密な階級化が求められるようになる。『花魁』は吉原独特の階級制度で、上から@太夫 A格子 B散茶 C梅茶 D局 の順になっていた。遊女の階級うち、@・Aを合わせて、部屋持ち女郎の意味で花魁(寛文期以降の呼称)と呼んでいた。後に、これら上級遊女の消滅(最高の花魁である太夫も、吉原では1760年の玉屋・花紫を最後にいなくなる)と散茶女郎の格上げによって散茶のみが花魁と呼ばれるようになる。これに、最下級の切見世女郎が加わる。
 散茶は庶民化の進んだ色町の象徴的存在である。それまでの上級遊女は嫌な客の相手はせず、逆に客を「買い手ども」と見下していましたが、散茶女郎は誰にでもわけへだてなく色を売るので振られる心配がなくなった。色町の庶民化が進んだとはいえ庶民にとっては遊女を買うことは決して安い出費ではなかったので、散茶女郎の方に人気が集まることになる。
 太夫・格子の消滅で一位となった散茶女郎は、更に三つに分れ、「呼出し」(初会に揚屋を通す)、「昼三」(昼見世三分)、「付廻し」となり、これらすべてが花魁と呼ばれるようになる。

 【補足】遊女の格
 吉原細見の表紙裏には、当時の遊女の格を示す「合印(あいじるし)」と呼ばれたマークの見方が掲載されているが、それによると、最もランクの高い遊女が、 印(入山形に二ツ星)の合印、揚代金が昼夜で1両1分(約\75,000.-)、「呼出し」の肩書がある「呼出し昼三」という遊女で、この位の遊女は、張見世はせずに花魁道中を行った。また、「昼三」の中には、「呼出し」の肩書の付かない遊女もいて、これを「平昼三」といった。 印の「昼三」は、夜ばかりでは1分2朱(約\2,2500.-)であり、 印の「呼出し新造付きの昼三」は夜仕舞で2分(約\30,000.-)、 印は夜ばかり2分2朱(約\37,500.-)と、「昼三」と呼ばれた遊女にもいろいろ階級相場があったことがわかる。
 「昼三」の下が、「付廻し」と呼ばれる遊女で、揚代が2分(約\30,000.-)で「昼二」とも呼ばれた。「呼出し」、「昼三」、「付廻し」の下には「座敷持」、「部屋持」がいて、「座敷持」・「部屋持」にも、昼夜2分(約\30,000.-)・夜ばかり1分(約\1,5000.-)というのと、昼夜1分(約\15,000.-)・夜ばかり2朱(約\7,500.-)などという階級相場が見られる。

江戸庶民と廓遊び

 江戸後期になると、男のたしなみとしても「廓遊び」は一般化していった。落語などでは、結婚後も遊郭に行く夫に妻が遊び賃をやる場面も見られる。
 その頃の記録に残っている遊郭は悲惨や堕落の場所ではなく、華やかで活気に溢れた社交的な場所である。そしてまた、宵越しの銭を持たない江戸っ子が、ここぞとばかりに見栄を張る場であった。実際、売春以外にも遊郭では、お金持ちが盛大な宴を催す場所というイメージが庶民にはあったようである。
 また、本気の恋愛をしに行く場所でもなく、擬似夫婦の関係やお気に入りの妓と小粋な会話を楽しみ、性欲を発散し、極楽を謳歌して大門をくぐり、元の日常に帰っていくというのが吉原遊びの流れである。現代の水商売とあまり大差ない意識だったと考えられる。
 また、姦淫を禁じるキリスト教よりも、仏教の性倫理は多種多様である。女犯を禁じる宗派もあれば、フリーセックスを肯定するおおらかな教義もあり、庶民の間でも人によってかなり感覚が違っていたようである。「慎ましく献身的な女性」という理想像は、明治以降になって、ようやく庶民の間にも根付くようになった価値観と言えるようである。
 女性の人権が尊重されていた時代ではないので、このように江戸時代までは売春は特別なものではなかった。しかし異文化(特にキリスト教)が本格的に流入してきた明治以降になると、世の風潮は売春婦を軽蔑していくことになる。この頃発布された娼妓解放令は娼婦たちを「牛馬も同じ」とすることで、女郎屋の解体を目指している。
 しかし、本格的に売春が禁止されるのは、その後何十年も経ってからで、現代もソープランドという形で残っていることを考えると複雑である。

遊女の呼称

 古来より数多くの呼称があり、古く『万葉集』には旅する女として「遊行女婦(うかれめ)」の名で書かれている。時代が下るにつれて呼称も多様化し、また形態や活動場所なども変化していく。中世には「傀儡女(くぐつめ)」や「白拍子(しらびょうし、はくびょうし)」、「遊女(あそび)」、「傾城(けいせい)」、「上臈(じょうろう)」などと呼ばれていた。その他「女郎(じょろう)」、「遊君(ゆうくん)」、「娼妓(しょうぎ)」という呼称もある。

 「遊女」とは、当時の一般的呼称であり、働く場所により名称も異なる。江戸時代の一時期には、遊郭で高い位を指す「花魁(おいらん)」や、湯屋で働く「湯女(ゆな)」、宿場で働く「飯盛女(めしもりおんな)」も同義として使われている。
 しかし、これは歴史の変遷を無視した論であり、「遊女」とは本来売春を主たる生業とする者ではないとする見方もある。

 源義経の愛妾として有名である静御前は白拍子と呼ばれ、歌って踊れる遊女のことである。この他、人形芝居の傀儡師、寺社の建築・改修資金を集めるため諸国を漫遊する巫女、比丘尼、宿場で給仕兼娼婦役の飯盛女、垢すりや髪すき以外に性的なサービスもする湯女(1633年頃娼婦化)、茶立女、女按摩など、隠語まで含めると相当数にのぼる。
 これらの名称で呼ばれた女性たちが実際に売春していたか否かは別である。芸者や舞妓は基本的に売春はしないことになっているが、見世や客や妓本人によってだいぶ違ったようである。名前は芸者屋でも実際は売春宿という例は枚挙に暇がない。
 ちなみに吉原では売春しない芸妓と売春する娼妓は区分されており、金をもらえば帯を解く半娼芸者は『けころ』と呼ばれて軽蔑された。

 【補足】茶立女
 宿と宿の間にある村を「間(あい)の村」という。間の村の中で、馬を継ぎ立てたり、人足や駕籠かきなどが休息する場所を「立場(たてば)」と云い、神奈川県下の東海道には18の立場があった。こうした立場の中でも、参勤交代の大・小名や一般旅行者などの休憩に供された、茶屋のある立場を「立場茶屋」と称した。こうした茶屋で茶の給仕をする女子のことを茶立女と云い、売春行為もしていたかも?
 【補足】女按摩
 歌舞伎『盲長屋梅加賀鳶』に出てくる女按摩の「おさすりお兼」さんの「二朱(約\7,500.-)より安い按摩はしないよ!」という台詞は、女按摩のマッサージが流しの風俗行為を意味している。因みに当時の遊郭や茶屋町じゃない街中で、その手の行為で「2朱」は、当時の物価から考えるとかなり破格だ。お兼さん、かなりの美女かテクニシャンだったのかもね!
 【補足】けころ
 漢字で「蹴転」と書き「けころ」と読ませる。江戸時代の最下層の娼婦・女郎が、お客を蹴って転ばせてまでもして店に引き入れていたことから「江戸時代の最下層の娼婦・女郎」を意味する。後に「けころ」は不美人の隠語にもなる。

遊女の死

 遊女は余程の上妓でない限り、粗食や過労、性病、妊娠、折檻などに常に悩まされることになりました。また、昼夜を問わず客の相手をする心労も相当なものでした。江戸時代の記録はないが昭和初期の娼婦は、一日平均して5人以上の客を取っていたようである。
 生理中も見世側が許す休みは2日程度であり、それ以上休みたければ馴染みの客や間夫(恋人)に来てもらい身体を休めるか、『身上がり』といって自分で自分の玉代(花代)を支払わなければ休めなかった。借金が増えることを恐れて2日の休みも取らないで働く妓は多く、その為に身体を壊すことになった。
 また病死だけでなく、思いつめた客に殺されたり心中死したり、見世側の私刑によって死亡したり、過酷な生活に耐えられなくなって自殺する遊女も多くいた。
 折檻については歌舞伎『助六縁江戸桜』に登場する傾城・揚巻が馴染み客の意休に啖呵を切る場面にもある通り、身体に目立つ傷をつけないように小刀針を用いる責め、水責め、蚊責め、鞭打ち、拘束などがありました。主に盗みを働いたり客を怒らせてしまった遊女に対して行われたが、時には折檻が行き過ぎて遊女がそのまま死んでしまうこともあった。
 吉原遊女が死亡すると、俗に「投込寺」と呼ばれる共同墓地に埋葬される。ここは無縁仏を葬る場所で、三ノ輪の浄閑寺が有名である。浄閑寺には現存するだけで数千人に及ぶ遊女の記録が残っており、それを辿ってみると死亡時の平均年齢は22歳前後となっている。遊女の年季明けは28歳ですが、それ以前に死亡する者も多かったことが記録の上からも窺える。

遊女の愛

 稼ぎのほとんどを見世に取られ、上妓であろうと心中死や逃亡防止のため、滅多に外出を許されなかった遊郭では、遊女はそれぞれテクニックを駆使して何とか客を取ろうとしました。これが手練手管と言われる遊女の工夫である。要するに恋の駆け引きである。
 そうして相手を自分に夢中にさせていくのである。遊女は売色家業ですので「操を立てる」ことは出来ません。遊女は何とかして、恋い慕う相手に自分の愛を証明する必要があり、その気持ちを証明しようとする方法は、総じて『心中立て』と呼ばれている。
 心中といえば情死が思い浮かぶが、それ以外にも、当時は色々な方法があり、具体的に挙げると、軽いものから順に「誓詞」、「誓紙」、「髪切り」、「入れ墨」、「爪剥ぎ」、「指きり」、「情死」とある。
 「誓詞」は口約束で、「誓紙」は誓約書である。それから時代が下がるにつれて誓約書に血判を押すようになり、女性の命とも言われた髪を切ることなどが要求されるようになっていく。これでも足りない場合は肌に相手の名前を入れ墨しあったり、爪を剥いで相手に誓いを立てるといった、商売に差し支えそうな行動をとる荒っぽい方法も考え出されました。しかしながら、他人の爪を買い取って荒稼ぎする知能犯的な遊女も現れ、指を切って落とす所まで至るケースもあった。
 究極の心中立ては、情死である。現代では心中というと情死を意味するが、これは最後の最後の切羽詰った方法だった。
 心中が流行してから、口だけの愛を語っている内に、遊客の方が本気になってしまい、無理心中を迫られる遊女が出てくる。このため見世側は不寝番と呼ばれる監視役を絶えず見廻らせ、また遊女にも万一の時のために護身用の剃刀を与えるようになった。
 心中物の元祖である近松門左衛門作の浄瑠璃『心中天網島』が絶大な人気を博した後、心中が流行して困り果てた奉行所が、1722年に「心中狂言の禁止令」を出したのは有名な話しである。


 【参考サイト】
  「遊女」−フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
  「花魁」−フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
  「遊女の歴史」
  「江戸の遊里・吉原」
  「江戸時代の貨幣価値」